「お金が貯まらない人」は社会の奴隷かも。毎日、誰かに支払うためだけに働いてるよね

お金が貯まらない人って、決まって、誰かのためだけに働いています。雇われてるとかそういう意味じゃなく、稼いだお金を全部誰かに渡しています。大家さんやスーパーやごはん屋さんや服屋さんに。

例えば20万円の給料のうち、2万円だけでも残せば、その2万円は自分のものです。でも貯められない人って、そのわずか1割のお金すら自分のために残そうとしません。全部誰かに捧げます。

どんなに一生懸命働いても、その貢ぎ癖が変わらなければ、お金なんて自分の元に貯まるわけがないです。

誘惑という鎖に縛られた、社会の奴隷

生活していくために住むところは必要だし、ご飯を食べたり、洋服を買ったりも、一般的には「自分のためにお金を使ってる」と考えます。それで、そういう使い方をしていて何も後悔がないなら良いです。

でもそうやって使いながら、後で「お金が貯まらない」と嘆くなら、その身の丈に合わない住居や食事やその他の支出の何割かは「まんまと乗せられて払わされたもの」の可能性が高いです。

社会の奴隷は、どんなに稼いでもそれを丸々社会に還元する

新しくて綺麗な家の方がいいに決まってます。美味しそうなものは食べたいです。素敵な服や新しい電化製品は買えるならいくらだって買いたいぐらいです。

でも、そういう欲求に毎月のお給料を全部持っていかれているようでは、見方を変えればそんな人はただの社会の奴隷です。

欲求と誘惑でできた鎖につながれた、毎月せっせと稼いではその稼ぎの全てを社会に献上する、社会の奴隷みたいなものです。

お金ではなく自分を大切にすると、お金は自然と貯まる

自分の暮らしや楽しみのためにお金を使っているんだから、社会の奴隷なんかじゃない。…そう考えるのも間違っているとは思いません。

ただ、お金を貯める、残す、ということを考えたとき、残したいのに残せないでいるのであれば、「自分のために残したいのに、社会に全部差し出している」という点で社会の奴隷みたいなものであることもまた事実です。

価値の基準がお金にあるのか、自分の労働力にあるのかの違い

お金に重きを置いた価値観の人は、お金を自分のために使っている以上は自分は社会の奴隷なんかじゃないと考えます。

しかしお金を生み出す元である「自分の労働力」にこそ価値があると考えている人は、その価値ある労働力の対価が手元に残らないことにはとても我慢できません。頑張って働いたのに、手元にお金が残らず全部誰かに支払うはめになるなんて、よほどの理由がない限り我慢なりません。

価値の基準が自分や自分の労働力にあると、稼いだお金がさっぱり手元に残らないような支出の仕方や支出先には疑問を感じます。「これは今の私には贅沢すぎるんじゃないか?」「これは本当にこれだけ払う価値があるのか?」といった具合いに。

お金に振り回される人とそうでない人の違い

価値基準がお金にあると、価格の高いもの = 良いもの、という見方をします。もちろん一般的にそういう傾向にあるのは確かですが、その視点から逃れられなくなってしまいます。

だから常にお金に振り回されます。割安でお得なものには、飛びつくけれども、安く手に入ったものにあまり高い価値は感じられず、逆に割高で無駄なものにこそ高い価値を感じ、そんな価値観だからどこまで行ってもお金に振り回され続けます。

一方、価値基準が自分や自分の労働力にあると、“ムダ”に敏感になります。たとえばブランドのロゴが入っているだけで何万円にも値段が跳ね上がるようなものは、馬鹿らしくて手が出せなくなったりします。

それはケチなんじゃなくて、単にその価格が高すぎて物の価値に見合っていないと感じるから手を出さないだけです。その無駄遣いをするに見合うほど自分の労働力の価値がバカ高いとは考えていないから、その無駄遣いができないだけです。

おわり

お金に振り回されないために、たとえば小さな幸せに目を向けたりとか、そういうことも大切だとは思います。でもなかなかそういう「お金から目をそらす」ような方法では、根本的な解決には至りません。何より自分をごまかしているようで気持ちよくありません。

お金に振り回されないためには、お金を生み出す元の部分(自分の労働力)の価値を再認識し、その価値を大切にした方が、自然とうまくいきます。自分の労働力の価値を大切にしていれば、無駄なものを欲しくはならないし、結果としてお金に振り回されない生き方ができます。

自分の労働力の価値を大切にし、できればその価値の向上にも努め続けたいものです。

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