ベーシックインカム(以下、BI)の財源について前回書いた記事では「所得税をBIの財源とすることのメリット・デメリット」について書きました。
今回はその続きで、所得税ではなく、なぜ消費税が良いと考えるのか?について論拠を書いてみます。
なぜBIが注目されるのか?から確認
BIの財源として消費税がより適切だと考える理由は、逆にそもそも「なぜ今、BIの導入が検討されるのか?」を整理すれば理解が早いかと思います。
社会が成熟しているからBIが求められる
BI導入が検討されているのは、社会環境が変化・進化し、成熟しつつあるからでしょう。平均的な生活水準が上がり、文化程度が向上し、“仕事”の意味も昔とはかなり違ってきているからではないでしょうか。

生活水準や文化の程度が向上すれば、次第に“過酷な仕事”“割に合わない仕事”は、仕事であって仕事ではなくなってきます。
仮に今、就職氷河期がまた訪れたとして、ではそのときに社会に本当に仕事(求人)が無くなっているのかといえば、絶対にそんなことはありません。
選ばなきゃいくらでも働き口はあります。低賃金・長時間・単純・肉体労働でも構わないとなれば山のように仕事は存在しています。
建設業界も運送業界も深刻な人手不足です。でもそれら業界に新卒で入る人は、設計や現場監督、運行管理などの業務に就くことを前提に入ります。足場を組むのもトラックを運転するのも仕事だというのに、まるでそれらは仕事ではないかのような扱いです。
人類総アーティスト時代
そもそも“仕事”の意味も、昔とはだいぶ意味が違ってきています。感覚的に言えば、おおよそ8割9割ぐらいの人は“どうでもいい仕事”をしているのではないでしょうか。
どうでもいいものを、一生懸命になって「どうしたら売れるか?」と考え、毎日どうでもいいものを売っては「ああ今日もよく働いた」と満足する。大抵の人がそんな“仕事”をしている社会になりつつあります。
もはや必要なものは十分すぎるほどある時代で、先進国社会では「売れ残りをいかに安く処分するか」「お客にいかに今あるものを捨てさせるか」に苦慮しているのが現実です。
実需に応えるのではなく、いかにヒットを出せるかの勝負。“人類総アーティスト時代”と言えます。
というか、本当に必要なものであれば、それは先進国社会においては行政や行政に担保された企業が担うべきものなのでしょう。安心して暮らせる社会にするためには、基盤だけは特別扱いしておきたいものです。
なぜBIが注目されるのか?のまとめ
要するに、従来の価値観で想像するところの“労働”と、暮らしが十分豊かになった現在、社会に求められ、まともに収益を上げられる“労働”とは、別物だということです。
『仕事』とか『労働』というものについて語る上で、このイメージと現実とのギャップをまず認識する必要があります。自分のやっている仕事そのものが社会に本当に役立っている人なんて滅多にいません。ただ「社会のお金を回す」という意味で社会の役に立っているだけです。
お金を回すための国家の歯車として便宜上、習慣上、今のところは仕事をすることになっている。ほとんどの人の就いている仕事の価値は社会的に見たらただそのための受け皿としての価値程度しかありません。
ちょっと分かりづらいかもしれませんが、たとえばあなたの勤める会社が明日から仕事量を半分に減らしたところで、困るのは自分とこの社員と、法人税を受け取れなくなる行政だけです。世の中の人たちは困りません。代わりの選択肢はいくらでもあるんですから。
だから、じゃあこんな辛い思いしてまで働かなくても、初めから行政が国民にお金を配って、私たちはそのお金を生活費として支出して、って形でお金を回せばいいじゃん、と。
頭の固い旧世代の人にはなかなか受け入れてもらえなそうだけど、至極合理的な考えから注目されているのが、BIです。
「労働者へ分配」から「消費者へ分配」に
以上の現状を確認した上で、ではBIの財源には何がより相応しいかの話に入っていきます。
これまで、社会における富の再分配のシステムとしては、基本的に“労働”を分配の条件として考えられてきました。所得税の税額控除がその代表ですが、今後の導入が検討されている軽減税率もそうですし、また欧米で行われている給付付き税額控除もまさにそうです。
労働を条件にしている限り分配不全は深刻化していく
しかしこれからは、社会に存在している仕事が全体的に薄くなっていくことが明らかです。現時点でもその傾向は明らかです。
なぜなら情報化社会では、どうしたってあらゆる業界が一強多弱になりやすいものだからです。
それなのにいつまでも労働を再分配の条件にしていたら、“多弱”つまり大多数の弱者が増加し続けていってしまいます。税の控除では到底追いつかないほど、大多数の国民の生産力(収入)も消費力も落ち込んでいってしまいます。
子どもや教育の次は何? 補助の対象は増え続ける
そんな労働を条件とした分配では無理が生じてきているため、社会が成熟するほどに社会保障の種類が増えていきます。
先日の衆院選では自民党から『幼児教育の無償化』の話が出ていました。”無償化”と聞いて違和感を感じる人は少ないようですが、幼児教育を無償化するためには、必ず誰かにタダ働きをしてもらう必要があります。
もちろん保母さんにタダ働きさせるわけにはいきません。では誰が? それは国民全員です。
それを「支え合い」と言えば言葉は美しいですが、現実にはどうでしょう。子どもを5人、6人と産み育てていけるだけの経済力がある家庭は支出よりも恩恵の方が大きいでしょうけれど、逆に経済力に乏しくて子どもが欲しくても産めないでいる夫婦にとってはタダ働きの強要以外の何ものでもありません。
独身者にとってみればもっと不公平感が増します。もし「独身者でも社会の一員なんだから支え合いには参加すべき」というのであれば、独身者が受益者になれる何らかの“支え合い”の仕組みもあってしかるべきです。幼児教育無償化の恩恵を受けるお母さんは独身男性の性欲処理を手伝ってもいいはずです。支え合いなら。
健常者が障害者を支えるのとは訳が違います。やんごとなき事情がある人の生活を支えるのとは訳が違います。
社会保障はどんどん袋小路にハマっていく
あるモデル的な人生を歩んでいる人は、生涯を通じてものすごい額の援助を受けられ、一方でそのモデルから外れた人生を歩む人は負担ばかりを強いられることになります。
今でも不公平感を感じている人はいますが、今の『労働を条件に分配し、求める声の大きい補助を別枠で増やしていく』やり方では、今後も永遠に不公平は大きくなっていくばかりです。
仮に大学が無償化(何割かの人にタダ働きの負担を強いる化)されれば、子どもがいない・欲しくてもできない家庭から見たら、他人の子どもを大学に行かせて遊ばせるためになぜ自分たちが負担を強いられなきゃならないのか、という思いを抱くのも無理はありません。
特に独身者や子どものいない夫婦は、幼子を抱えて働けないシングルマザーの生活費や他人の子どもの幼児期から大学卒業までの学費を上納する、ユルい社会の奴隷みたいな存在になるかもしれません。もちろんそんな人たちは、自分たちへの見返りを要求するなど許されません。
「嫌なら自分たちも日本の未来の為に子どもを産み育てよ」という声が大きくなれば、やがて不妊治療に対しても大きな補助金が出るようになっていくでしょう。
すると今度は、若くて健康なうちに元気な赤ちゃんを産んだ夫婦からは「なぜ散々遊んで好きなだけ働いて経済的にも余裕のある夫婦のために、パートしながら必死に子育てしてる私たちが負担を強いられなきゃならないのか」という不満がわき上がってくることでしょう。当然のことです。高い家賃のマンションに住んでいる、大きな車に乗った夫婦に、それが欲しくても買えない家庭がなぜ経済面で援助しなきゃならないのでしょうか。
シングルマザーが健康で文化的な生活を送れ、安心して子育てできる社会の方が良いに決まっています。ただその「安心して…社会」の作り方に疑問を呈しているだけです。
行政の決断力が求められている
この、あちらを立てればこちらが立たずみたいな状況は、社会保障の起点が“労働”にあるから起きる問題です。
安心して子どもを産み育てられる社会にするのに、なぜ短絡的な「養育費・教育費の無償化」という発想になるのか。大きな変化を恐れて、小手先の施策で問題を先送りしようとしているとしか思えません。
根本にある生活の不安を取り除くことなくあれこれ税制をこねくり回してみても、そもそも労働が減っていく社会において、社会保障のシステムが労働を分配の条件にしている限りどうにもなりません。
次から次へと問題が出てくるだけです。若者が「老後が心配」「長生きしてしまうのが怖い」という時代・社会です。
追い詰められ、他国の『前例』を確認してからなし崩し的に改革しても、その頃には日本は世界で競争力を失っているでしょう。…是非ともその逆の立場を狙いたいものですが。
『消費力』が国力を左右する。今の日本で大切なのは労働者ではなく消費者
以上のことから、BIを考える上では労働に代わる何か別のものを分配の条件として考えなければなりません。
西欧諸国が中国に媚びる理由
ところで今、中国がほんのここ10年ぐらいの間にものすごい経済成長をし、今なお世界中から莫大な投資のお金がなだれ込み続けているのはなぜなのか? 考えてみたことはあるでしょうか。
国力というのは、国家の生産力と消費力が決めます。安い労働力ばかりがどんなにあっても、それだけではどうにもなりません。
世界を見渡せば他にもいくらでも安い労働力はあるのに、なぜ中国だけ突出して急激な経済成長を成し遂げられたのか。それは中国人民の消費力が、中国の外から見て魅力的に映る水準にまで上がってきていたからです。
中国人民の消費力が魅力的だから中国にお金がなだれ込み、西欧諸国は今まさに揉み手で擦り寄っています。米国も危うく、ヒラリーが大統領になっていたらこの中国の消費力に“買われて”しまうところでした。
それだけ国力に大きな影響を及ぼすのが国家の消費力です。
であれば、成熟した日本社会ではもう労働することは根付いているのだから、富の分配の条件を従来の労働から“消費”にシフトすれば良いのではないでしょうか。
「良いのではないでしょうか」というより、むしろそうすべきでしょう。でないとどんどん地盤沈下が進んでいくことは目に見えています。というか、中国や北朝鮮が今以上に力をつけていったら、200年後300年後には日本は物理的に沈下させられているかもしれません。
どうしたら消費を分配の条件にできるか?
では消費を分配の条件にするにはどうしたらいいか?
従来の労働についての税務処理と同じようなことを消費に置き換えてやるというのは無理があります。
ではどうしたらいいか?
そこで出てくるのが、(BIの)消費税財源論です。
『国内消費が財源』…これ以上に単純明快で適切な財源は他にないでしょう!
「国内で消費してくれる限り、BI受益者としての資格があります(※年齢制限あり)」
消費税を財源にするだけで、消費を分配の条件にできます。
弱みが強みに替わるのは消費税財源論のみ
巷では所得税財源論が大手を振っているようですが、所得税を増税することは国力の観点からは『BIがもたらす不利益』でしかありません。
しかしそれを消費税を財源にすることで、消費を分配条件にすることで、BI導入に必ず伴うと思われていた欠点が利点に変わってしまいます。弱みを強みに転換できます。
おわり
財源についての前回記事を公開してから3ヶ月も間が空いてしまいました。正直、前回記事があまりにアクセスなかったので続きを書くのが億劫になっていました。
ところが最近、衆院選で希望の党がBIを公約に入れたことで、このブログのBI関連の記事にもアクセスがそこそこ来るように。そして選挙の翌週(今週)も毎日コンスタントにアクセスがあるので、重い腰を上げてみました。
一連の記事がみなさんのBIについての考えを深める一助になれれば幸いです。気が向いたらまたBI関連の記事を書きます。
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